連載コラム
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コラムサラリーウーマン金太郎 ── いよいよ独立起業編
Vol.13 「別れの予感 Part3〜甘い誘惑」
(1.Dec.2003)
電話の相手は2年前にパーティで友人に紹介された女性だった。確かに会ったのかもしれないが、記憶をたどっても顔は浮かばなかった。

「…でお目にかかったIといいます。私の仕事は簡単に言えばヘッドハンター。貴方にぴったりなお話があるのです。お話だけでも聞いてみませんか?」

このような電話を受けたことが無いといえば嘘になる。IT業界は非常に狭く、発展途上でかつ経験者の人材不足。技術者ではなくプランニングやプロデュースを行う私にも声をかけてくる会社はいくつもあった。
しかしながら、それまでの私はそういう話に全く耳を傾けなかった。理由は自分のゼロからスタートさせたマルチメディア事業部こそが、私の夢であり、未来への可能性に続く道に思えていたから。
しかし、今回ばかりは違った。

その時、私は今年度の事業計画と3年間の事業計画を作り終えたところだった。いつもだったら、新規のプロジェクトや、かなり無理なハードルを自ら設け、それに向かって事業部一丸となって頑張るんだと燃えている春3月なのに、気持ちは落ち込んでいた。
理由はMとKの退職に他ならなかった。彼らの穴を埋めるべく、人事異動で配属になったメンバーはマルチメディアに興味を持っている様子はなかった。OJTだの何だのとてんてこ舞いになっている他のメンバーを見つつ、私はドリームチームの崩壊を確信した。
もはや私の心のエンジンは止まってしまった。モチベーションは限りなく下がっていたが、事業部長である仮面を被って、私は自分を無理に奮い立たせようとしていた。ここから逃げ出したい、またもう一度どこかで夢を思いっきり追いかけてみたいと願っていた。

「お話をお伺いするだけでも良いなら、お目にかかりましょう。いいですよ」
私のあまりにも、すんなりとしたYESの返事に電話の主は驚いているようだった。相手はすかさず翌日に約束を入れてきた。会社近くのアークヒルズ1階のスターバックスで私は彼女と再会した。早速彼女が話し出した。

「実はある外資系の映画会社の日本支社が宣伝部長を探しています。今まで男性だったのですが、US本社が日本の映画ファンは男性より女性が多いのだから女性を部長として起用したい。しまもこれからの宣伝広報戦略としては、新しいメディア、インターネットなどに精通していることが重要。映画関係のキャリアに関しては特に必要は無いということなのです。私はとっさに、植田さんのことが思い浮かんだのです。今のお仕事で活躍されていて、やりがいを感じていらっしゃることは百も承知ですが、この辺りでキャリアアップを考えられませんか?」

その話は不思議に私の耳に心地よく入ってきた。しかし、映画ファンでも無い私がどうしてだろうかと?
「私、特に映画ファンでも無いですよ。それに私の専門分野はマルチメディア、今の会社の前はアスキーでバイリンガルフリーペーパーの編集長でしたが、それでも私はIT系です。それに今までお金を稼いだり、儲けたりすることを考えるのが仕事で、宣伝関係のキャリアは無いですよ」

「クライアントは映画業界でのキャリアを必要と考えていないのです。それよりもマルチメディア、インターネットというIT業界のキャリアこそが彼らが求めているものなのです。それに植田さんは女性であるという点でも条件はぴったり。他にいませんよ。宣伝部長というのは、メディア戦略をたてながらお金を使って映画をヒットさせれば良いのですし、しかもこの会社はご存知の通り非常に有名な映画会社です。会社の信用はありますから、後はご自身の実力で十分に実績を上げられるはずです」

「でも、外資系って1年とかで首とかそういう世界でしょう? 同じIT業界ならまだ自信はありますが、知らない業界で1年でさようならだったら困ってしまいます」

「先方は年収○○○○円で5年契約ということでのお話ですよ」

当時、死に物狂いで頑張って7年、子宮筋腫2回の代償の年収は1500万円になっていた。自分なりに満足なのか、もっとなのかは考えてはいなかったが、今働いている会社では限界の収入となっていることは確かだった。

条件はその年収の1.5倍で、しかも5年契約。私の体から魂が抜けて行くような気がした。まるで甘い匂いに誘われて飛んでいく蜂のように。そして3時間後、最終的に私が断る可能性もありますと言いつつも、話を進めてくださいと返事をしていた。心の何処かで、そんなうまい話は無いし、相手が私を断るに違いないと私はたかをくくっていた。

最初の面接は人事部長だった。いきなり意気投合してしまった。二人目の面接は営業部長だった。宣伝部長のポストと車の両輪となる人だ。これまた問題なく終わった。そして東京支社の総責任者の面接だった。彼は日本人の母を持つアメリカ人だった。
ホテル西洋銀座でランチをとりながらの面接ミーティングで、相手が本気で気に入っていることが分かった。そして3日間も絶たずにヘッドハンターのIから電話が入った。

「日本での最終面接は全て終わって◎よ。後はUSの責任者の最終面接を待つだけ。でもこれは形式みたいなものだから、実際にいつからこの会社に行けるかとか具体的なところを話せるようにしておいてね」

それは最初の話を聞いてから3カ月過ぎた新緑の季節だった。気がついたら私は自分の転職へのプログラムを全速力で走っていた。そうかこれが運命なのだと、退職時期を漠然と意識しながら事業部を見回した。不思議に未練もなく、まるでそれは何処かの知らない景色をみるような感じがした。

唐突に電話が鳴った。それはマルチメディア事業部を育て上げてくれている親会社の関連事業本部の課長からの電話だった。

「最近、本社に来てないのかな? 全然顔を出さないし、面白いイベントの仕掛けもしてないのかな。さて、君に折り入って聞きたいことがある。非常に重要なことだ、できる限りすぐに時間を作ってきてくれたまえ。それと、関連事業本部に来ることは、上に報告しなくていいからね」

一体なんだろう? 私はヘッドハンディングの話を誰にも話していない。親、恋人誰にもだ。私の話ではないとすると何? しかも上司に言わずに来いということは?(つづく)

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