連載コラム
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コラムサラリーウーマン金太郎 ── 激闘本番30代篇
Vol.8 「冷たいスポットライト」
(15.May.2000)
1992年のマックワールドではNSXのCD-ROMを発表と同時に、主催者コンファレンスプログラム(3日間3万円くらいの高額なもの)の1コマのゲスト・パネラーとして講演して欲しいという依頼が私に舞い込んできた。これはCA(スチュワーデス)のマルチメディアによる教育訓練が、企業事例として非常に先進的であったからである。社内が認めなくても、世の中はちゃんと見ているのだ。しかし、この依頼に対して社内はもめた。なぜ私が出るのかひがむ上司とマルチメディア事業の採算性に疑問をもつ他のセクションからのやっかみ、喜んでもらえると思った私は甘かった。
 しかし依頼してきた主催者が大手メディアなので、結局、断る勇気もない会社は私に講演内容の原稿を作らせ検閲し、その内容だけを話すということで認めた。原稿は3回以上も書き直しをさせられて、内容は実につまらにものになった。
 講演の前日に会場リハーサル。私はプレゼンをサポートしてくれるクリエイターと一緒に席についた。もう一人のパネラーの某企業男性は余裕満々で、20分もかからずリハーサル終了。次の私は原稿の棒読みを始めたが、何度も何度もつっかえ全然うまくいかない。主宰者側のスタッフも、私の部下達も、こんなので本番が大丈夫という不安な囁きと冷たい視線が浴びせた。壇上から降りると、上司がそれみたことかという顔で、「それがおまえの実力だよ、まあ頑張れ」と励ましてくれた。
 当日の朝、私はある決断をしてセミナー会場に臨んだ。300名がほぼ満員の会場の前で、皆が心配な顔で待っていた。しかし私の顔には昨日とは違う微笑みがあった。後30秒ですと言われト、緊張気味のクリエイターに、手のひらに人を3回書いて飲めばいいのよと、一声かけてステージに上がった。手には新しい講演用のメモを握り締めて。スポットライトが当たった途端、会場の人の顔が何も見えなくなった。スポットライトに自分が浮き上がり、気分が高揚してきた。
 さあ、これが私の最初の舞台、立て板に水のごとく、私は30分の持ち時間をマルチメディアの企業内教育での可能性、発展性について話しまくった。会社に提出した原稿の文章など1行も読まなかった。もう一人のパネラーが、私の大変身に驚き、逆に緊張してしまった。
 講演は大好評で、壇上から降りると参加者が20名ほど、私との名刺交換をしたいと並んだ。上司の顔を見ると意外にも喜んでいる。彼も名刺交換できるわけだし。名刺交換をしたのはそうそうたる企業の方々ばかりだった。大成功!
 そして、このマックワールドで講演をきっかけに、エアラインA社の教育訓練開発は、企業内マルチメディア活用の実践例として有名になり、またそれを手がける先駆的なプロデューサーとして私の名前も有名になった。コネなし人脈なしの私は、これを機会にどんどん業界の人的ネットワークを広げていくことになる。しかし、世間の評判や評価が高まろうとも、サラリーマンは幸せではないのだ。二宮金次郎状態の営業活動と、社内の冷たい風当たりには何も変わるどころか、生意気だと周りの感情は増幅しているとさえ感じた。このアンバランスな環境の中で、半ばヤケクソで毎日営業していた時に、一気に道が開けた。

 半年以上かけて営業をしていた案件、パイロットの教育訓練のマルチメディア化が決定。私の部門が社内外の他社とのコンペにも勝ち受注したのだ。これは後に続くパイロット教材系の開発の、最初で最大プロジェクトとなった。これは各空港への離着陸訓練のセルフトレーニング教材「AVパック」。エアラインA社が離着陸する空港全部(当時約80空港分)をCD-ROMのマルチメディア教材にし、素材&教材データ全てがDB管理し、改定を行うというもの。各空港が年3回以上の改定がかかる中、それまでのスライド教材からのデジタル化がもたらす効果が定性的にも、定量的にも素晴らしいことであったのは言うまでもない。
 この内容自体は前述のHONDAのNSX CD-ROMのようなエンタテインメント性など全くない地味なものであったが、このプロジェクトを通して私の組織が学んだことは多かった。そして、これは企業におけるマルチメディア導入の大きな成功事例として、日経関連の新聞、雑誌に取材掲載され、NHKのニュースでも取り上げられた。
 この時、私の直属の上司を含め、会社の経営陣までもが狂喜乱舞したことは言うまでもない。「マルチメディア事業を立ち上げた自分たちの見る目はあった」と満足げに。私はこの瞬間から、上司と経営陣を自分の味方につけることができた。冷たいスポットライトは徐々に暖かくなってきた。

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