連載コラム
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コラムサラリーウーマン金太郎 ── 奮闘&挫折の20代篇
Vol.3 「敗者復活戦 「Urb」創刊」
(11.Jly.1999)
20代って今思うと、やっぱり恐いもの知らずでした。小さかったけど、自分の会社を潰したことは、かなりの精神的ダメージだった。十二指腸潰瘍で肉体的にもボロボロ。 そこで私は慰労と復活のために、残った貯金を使って、思い切ってエジプト旅行をしました。広大な砂漠を眺めながら、雄大なナイル川を上流へと進むうちに、私はいろいろなことを悟ったと思います。「私の失敗なんて地球の歴史に比べたら一瞬のまばたき、何度でもやり直しができる」と、私なりの人生哲学を得たのでした。これで、一気に立ち直りました。エジプトを選んで、本当に良かった。
 エジプトで心の洗濯を終えて戻ってみると、幸せなことに、いくつかの会社から働かないかというオファーが待っていました。私は自分の次の目的を考える充電期間が欲しかったので、一番自分自身の時間がとれそうな、ライブラリー(資料室)に配属してくれる、アスキーを選びました。朝7時出勤で新聞だの雑誌だのを読んで、パソコン業界の記事をピックアップするのが私の仕事。楽しかったな。だって1日中、堂々と雑誌や新聞を読めるし、それでお給料がもらえるのだもの(笑)。

 そして1ヶ月後に自分がやりたいことは「やはりメディアの世界なんだ」と実感したので、辞表を書いて何も先のことは考えず、社長に提出(笑)。そうしたら「新規事業の計画あるから、そこに企画書を書いて駄目だったら辞めたら」と言われた。1989年の頃のことです。新規事業というのは地域に密着した文化事業。当時アスキーはパソコン関連ではなく一般誌、および新聞に興味が出てきた頃でした。

 そこで驩謔オたメディアが「Urb」(読み方:アーブ)、社内コンペでなぜか勝ってしまいました。入社3ヶ月、28歳のプロジェクトリーダーの抜擢は、風当たりも特大級の台風なんて比じゃなかった。「Urb」は前に発行していた「Tokyo BAZZAR」をもっと昇華させた形の、バイリンガルのフリーペーパー。それに、パソコン通信とのメディアミックスも"売り"だった。A3サイズ8ページ、隔週で発行。港区・千代田区・中央区・渋谷区あたりのショップ(レストラン・コーヒーショップ・本屋・スーパー)200店舗以上で配布し、定期購読会社が300社以上。1年半で、発行部数は12万部くらいまで伸びました。

 結局、ここでも編集長兼、広告責任者だったので、昼間は広告営業、夜は編集作業と以前のような過酷なペースに突入。でも、大きな違いはきちんとした制作チームで“システム的にメディアを立ち上げ、発展させてゆく”というノウハウを経験できた気がすること。アマチュア編集長を卒業して、メディアプロデューサとして歩み出した第一歩とも言えるかも。広告営業も含めて、人的ネットワークも一気に広がった時期でしたけど、いつもナイル川からみたエジプトの雄大な風景が仕事に追われる私を癒してくれたものでした。

 「Urb」がどんなメディアだったかは、次回詳しく説明しましょう。

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