連載コラム
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コラムサラリーウーマン金太郎 ── 奮闘&挫折の20代篇
Vol.2 「バイリンガル・フリーペーパーを選んだ理由」
(21.Jun.1999)
「Tokyo BAZAAR」を始めた時、絶対に某商社の部長に読まれる新聞にしなくてはならなかったので、必死に作戦を考えました。普通に売られている総合誌や専門誌をすぐ作るのは無理。でも、高校時代は新聞部の部長をやっていたので、無料で、しかも「新聞」だったら作りやすいかな、と。
 でも、お役所の広報紙やデパートのバーゲン告知チラシみたいな、ダサいデザインでは見てもらえない。商社の部長なら海外関係の仕事も多いだろうし、英語はもちろんできるに違いない。英語と日本語が混在するバイリンガルのお洒落なフリーペーパーにしよう、とひらめいた。それならきっと、近くのコーヒーショップやレストランで、ランチしながら手に取ってもらえるに違いない。

 当時そういうフリーペーパーが他に存在しなかったのでライバルはゼロ(笑)。今考えれば、「なんて短絡的な発想!」と思うけれど、これがバイリンガルのフリーペーパーにこだわった理由なのです。英語が得意なわけでもないのに、なんと大胆。

 日本人とイギリス人のアルバイトと一緒に、夜中は原稿書きと編集作業、昼間はもちろん新聞を置いてくれるお店を探し、交渉に明け暮れた。最終的に発行数は3万部まで伸び、都内で約70個所の店舗に置いてもらうまでになりました。デリバリーまで全部、自分達で担当。当時は寄せられた情報を掲示板方式に掲載していて、それが功を奏したようで愛読者もどんどん、増えたようです。

 このメディアで、広告を取ることも体当たりで勉強しました。まだバブルの頃だったので、飛び込み営業に近い形だったけれど、生命保険会社や証券会社がこの弱小メディアに広告を出してくれました。

 私は「Tokyo BAZAAR」を通して紙メディアの作り方の一部始終を、独学で身につけたのです。本来の目的ではなかったものの、こうした活動が皮肉にも新聞に取材されたり、ラジオ番組に出演したりとマスメディアにちやほやされるようになって、気がつけばメディアの魔法にかかっていたのです。この私のフリーペーパーは、まだ人に感動を与えられるようなものでなかったけれど、メディアの麻薬性は、体にしっかり染み付いたようですね。

 結局、経験など全く無い無謀な27歳の挑戦は十二指腸潰瘍という体力の限界と、広告営業の限界で、もろくも1年で終わってしまいました。貯金は限りなくゼロ、入院までして、心身ともにボロボロになってしまい、私の人生での大きな挫折の一つでした。
 ただ、数ヶ月後、懲りもせずに復活してしまうのですけれど……。

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